현대 중국침구학 형성에서 일본의 영향
茨城大学人文学部(大学院人文科学研究科)
(第55回全日本鍼灸学会学術大会(金沢、2006, 6, 18)特別講演③)
(*https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/MoChiAcu.html)
The College of Humanities, Ibaraki University
Key words: acupuncture moxibustion medicine, extinction policy, Cheng Dan-an, Japan, classic studies, education method, contribution, new Chinese medicine
皆様おはようございます。それでは、定刻となりましたので、特別講演の③「現代中医鍼灸学の形成に与えた日本の貢献」というタイトルで、真柳誠先生にご講演願いたいと思います。恒例によりまして、真柳先生のプロフィールを簡単にご紹介いたしたいと思います。
真柳先生は1950年に札幌にお生まれになりまして、1977年東京理科大学の薬学部を卒業され、1980年には日本鍼灸理療専門学校を卒業されました。その後、中国に留学されまして、1981年北京語言文化大学現代漢語過程を卒業され、1983年には北京中医学院の進修過程を卒業なさり、帰国されまして、北里研究所東洋医学総合研究所の医史学研究室に入られました。並行して昭和大学の医学部の研究生の課程に入られ、1992年に医学博士号を取得なさっておられます。その後医史学研究室の主任研究員、室長を経られまして、今から10年前1996年に茨城大学に栄転されまして、大学院の人文科学研究科の教授に就任なされまして現在に至っておられます。
主な研究業績といたしましては、『和刻漢籍医書集成』という16集から成る厖大な叢書。それからお話の中にも後で出てくるかと思いますが、『小品方 黄帝内経明堂 古鈔本残巻』の研究書、また本草学・薬物学としては『中国本草図録』という叢書を出されています。あるいは研究論文等、200編を越すご業績がございます。現在、各学会で重要な職に就かれておりまして、日本医史学会の理事、日本薬史学会の評議員、日本中国出土資料学会の理事など重要な職を兼務されております。
先生の主な研究内容は、中国と日本の医学史・本草史、中国・日本の医薬文化交流史、医学書の書誌学を重要な研究領域とされております。
それでは先生にご講演願いますが、スライド60枚をご用意されているよし、大いに力の入ったご講演となることと期待しております。どうぞよろしくお願いいたします。
(以上、座長・小曾戸洋先生)
どうも小曾戸先生、ご丁寧な紹介ありがとうございます。また今回このような晴れがましい席に私をご指名いただきました多留大会長に心から御礼申し上げます。
本日、私がお話させていただくことは、現在の中国鍼灸学の形成に日本の研究業績がどのように影響を与えていたかということです。
1.日本の医学史 概要
まず簡単に日本の医学史の概要をお話します。日本は6世紀の仏教伝来と前後する中国学芸との本格的接触以来、現在まで約1500年にわたり中国医学を受容し続けています。しかし地理的に医人の往来は稀で、主に文献を介した受容だったことが他の中国周辺国と大きく違います。書物を通して中国医学を約1500年間学び続けてきたということです。また風土・産出薬の相違もあり、明瞭な日本化を10世紀から見ることができます。『医心方』です。18世紀には日本独自の医療体系が形成されました。さらに明治後期から大正時代まで約30年間の断絶・暗黒時期を経て、近代医学も援用した漢方・鍼灸が形成され、現在に復興しています。
2.日本で保存された中国の佚存医書と善本
つぎに日本における中国医書の受容について話させていただきます。日本は遣隋使の時代から幕末まで中国医書を輸入し続け、その多くを現在まで保存してきました。中には中国で失われた文献もあります。これらは本国で散佚し、国外に伝存したことから、佚存書という名称が与えられます。幕末には佚存書に基づく高度な古典研究がなされました。日本の研究成果と日本に伝存した古医籍は明治以降、中国へ還流し、多くは復刻されて現代中医学の形成に寄与しています。たとえば日本で保存された中国の佚存書ですが、京都の仁和寺からは唐代7世紀の『黄帝内経太素』と『新修本草』(いま共に国宝です)が、尾張医学館の浅井正封により江戸後期に発見されています。また隋以前の著作『黄帝蝦蟇経』も江戸医学館が発見し、復刻しています。
一方、座長の小曾戸洋先生と私は、加賀この金沢の地の前田家が保存してきた貴重な古典籍の文庫である尊経閣文庫において、7世紀初めの経穴書『明堂経』と5世紀の『小品方』を1991年に見出しました。以上はいずれも遣隋使ないし遣唐使が日本に持ち来たったものに由来する佚存書です。
また中国に現存するものより優れた版本、ないし写本が日本に現存するという例もあります。たとえば唐代7世紀の医学全書『備急千金要方』と『千金翼方』です。日本には前者ですと南宋版があり、国宝に指定されています。後者には元版があります。これに基づき、幕末に江戸医学館の多紀元堅が、そっくりそのまま影刻しています。その版木は明治11年に輸出され、上海で日本の版木を用いて印刷されました。この中国印刷『千金方』『千金翼方』が人民衛生出版社から影印再版され、さらにそれは日本に輸入されて私たちがよく利用しています。
3.日本から中国へ 第1期(明治初~中期:清国末期)
このように日本の保存した書物が日本から中国に還流、あるいは日本人が研究した様々な中国古典籍の研究書が中国に伝入するということは、現在まで大きく4つのピークがあります。現在はその最後、4つ目のピークにあたります。第1期は私の検討によりますと明治の初期から中期、ちょうど日本が伝統医学の暗黒時代を迎えようとしていた時です。これは中国の清国末期にあたります。明治維新後は漢方医が基本的にその一代限りで次の後継者の養成を認められなくなった時代です。そのため伝統医学の研究者は払底を余儀なくされました。彼らの著述や研究資料であった厖大な医薬古典籍は無用の長物と化し、あるいは私蔵され、あるいは巷間に流出していきました。これら書物、時には版木などが当時来日していた中国の学者や官僚に注目され、様々な経過を辿り、清末の中国に伝入しました。その嚆矢は来日した金石学者の楊守敬が購入した版木により、帰国直後の1884年に出版した『聿修堂医学叢書』です。聿修堂というのは幕府の江戸医学館を主宰した多紀家の蔵書室、あるいは研究室の名です。この中には多紀元胤の『難経疏証』や小坂元祐の『経穴籑要』も収められていました。
スライドの左側が楊守敬です。右側は楊守敬の出した『聿修堂医学叢書』で、ここに光緒甲申年の秋、1884年ですが、これを出すということが書いてあります。『聿修堂医学叢書』も中国で多紀家の版木を使って印刷されました。このスライドに示しているものは、それを中華民国時代に活字線装本いわゆる和綴じ本の形で出版したものです。
他に還流ないしは伝入した書をあげますと、山脇東洋が復刻した中国唐代の医学全書『外台秘要方』の版木が1874年に広東に輸出され、広東で印刷されています。1888年には清国公使館員の王仁乾が、多紀元堅の腹診書 『診病奇侅』を出版しました。これは当時、漢方の存続運動を行なっていた温知社の一員・松井操が漢文に訳し、それを王仁乾が日本で出版し、中国で配布したのです。これにより日本の腹診術が中国に広まったわけで、特に台湾で広まりました。
1890年には清国の外交官の羅嘉傑が、日本で入手した影宋版『備急灸法』を日本でそっくりそのまま彫っております。彼は楊守敬が日本で大量の貴重書を買い込んだということを知っており、アメリカからの帰国途中に日本に寄ったのです。当時このような復刻を中国人が日本でしたのは、江戸の浮世絵や明治の錦絵などにより、中国よりはるかに高いレベルで文字や絵をそっくりそのまま版木に彫る技術が日本にあったからです。
1892年には成都の胡乾元が、上海で開業していた日本医家の持っていた和刻『仲景全書』に基づき翻刻しています。日本はもう明治時代で漢方が存続できなくなったので、名前は分かりませんが上海に行って開業し、非常に名声の高かったという日本の医家が持参していた書です。『仲景全書』は現在でこそ私たちの研究で中国・台湾に5組の現存が発見されていますが、当時の中国ではもう無くなったと考えられていました。そのために和刻版の『仲景全書』を中国でリプリントするということが行なわれたのです。
このほかに、来日した李盛鐸・羅振玉なども多数の古医籍を購入。また上海等で薬店を営んだ岸田吟香なども、日本から運び込んだ古典籍を販売しています。岸田吟香はヘボンに学んだ目薬の精錡水を上海あるいは武漢などに開業した薬店で販売していたのですが、日本で無用の長物となった中国関係の古典籍等も販売していました。
こうした結果、逸存書を含めてこれまで中国に還流した中国医書は296種、中国に伝わった日本書は751種あることが私の調査で分かっています。これは種類であり、同じ本がいくつもあるため、いま中国にある日本旧蔵の古医籍は約4000点、数万冊以上と考えられます。この規模は現在日本で最大の古典籍蔵書機関の内閣文庫を凌ぐ量で、それ位の書が明治から昭和にかけて日本から中国に流出していったのです。また先程も申し上げた日本で作られた版木も輸出されており、これで印刷された中国医書は9種、日本医書は14種、朝鮮医書は2種あります。今後もう少し増えるかもしれませんが、大体これくらいと思います。
4.近年の還流事業
近年の還流事業を申し上げます。これが4つ目のピークになります。私は全世界に所蔵される中国系古医籍の状況について、中国の友人と共同研究を10年ほど重ねてきました。この結果、版本の相違を無視し、たとえば『千金方』なら何版でも1種として数え、中国大陸に約1万種の中国古医籍がありました。一方、日本には約1千種の中国古医籍があり、そのうちの15%、153種が中国では無くなった本でした。すでに明治から昭和にかけて、中国に無くなっていた本が日本から還流していたのですが、その他に153種あることを発見しました。さらに3種類の大陸で逸存した本が、日本と欧米に共通してあります。19種は日本と台湾に共通してありました。また当共同研究の一環として、日本に現在もある佚存書と貴重な古典籍の全てを、国際交流基金の助成によりマイクロフィルムに撮影し、中国に里帰りさせました。これで約1500年、私たち日本人が中国から受け続けてきた学恩に些かなりと報えたと思っています。
スライドは、いま話しました状況を大きく模式化したものです。このうち日本だけに153種類も中国では無くなっていた本があったのです。また中国大陸になくて、台湾と日本に共通してあるのは、実は元々日本にあった本です。その他の部分は韓国および欧米です。このデータには漏れていますが、最近の調査で日本にも中国にも無い中国古医籍が韓国に2種類あるのを見つけました。またベトナムのハノイにある国家図書館およびハンノム研究院の蔵書調査で、中国や日本などどこにも無い中国古医籍を3種類、発見しました。このように中国周辺国では案外と中国に無くなった書を保存していますが、圧倒的多数が日本にあり、日本の蔵書の15%は中国に無くなっていたのです。明治維新以前ならば、おそらく日本に保存された古医籍の20%近くが中国に無くなっていたはずです。中国では元々こんなに沢山あったのですが、本というのはどんどん無くなってゆくものです。日本が高率で中国の様々な文物を保存してきたことは正倉院の文物からも分かりますが、書物もそうだったのです。
5.近代日中の鍼灸
では近代日中の鍼灸はどうだったかに話を移します。中国では清の1822年、皇帝の体に鍼や灸をする行為は許されないという勅令により、宮廷の太医院で鍼灸科が廃止されました。そして皇帝に禁止された鍼灸治療は、むろん民間でも行ってはいけないことです。ちなみに日本の幕末まで続いた伝統医学は、明治の初期にはり灸を除いた漢方医を認めなかったため、それから復興運動が開始されるまでの約30年間ほぼ断絶しました。その暗黒の30年間で日本の伝統医学研究レベルは、300年ほど後退し、江戸の初期に戻ったようです。私のうがった見方で申し訳ありませんが、ほんの10年前まで日本で議論していた中国医学理論のレベルは大体、元禄年間くらいの印象でした。現在は享保年間くらいまで来たという感じです。わずか30年の伝統の断絶が、300年も学術レベルを下げてしまったのです。そして中国ではこの勅令が出た1822年から清末までの約100年間、ずっとはり灸の暗黒時代で、民国初期には殆ど壊滅状態になっていました。
一方、日本では明治維新以降、西欧医学を導入して漢方医の根絶策を進めました。しかし鍼灸だけは近代医学も教育した鍼灸師という形で存続し、科学研究もなされてきました。伝統が途絶えていた中国は、これゆえ日本に大きな刺激と影響を受けたのです。その程度は中国で出版された日本の鍼灸関連書からはっきりわかります。スライドは偶然私が古書店で買った佐藤利信の著で、明治21年に刊行された鍼灸師用の鍼学のテキストです。これは殆ど解剖学書といえるほどで、完全に近代解剖学に基づいて経穴の位置が指示されています。つまり経穴の位置を、それまでの骨度法から解剖的位置に改めたものが教育されています。
6.近代中国で出版された日本の鍼灸書
近代中国では、どのような日本の鍼灸書が出版されていたのでしょうか。調べてみると1910年までの清代に出版された日本の鍼灸書は、江戸の著述が1種類だけでした。それは先程申しました楊守敬が持ち帰った『聿修堂医学叢書」中のものです。1911年の辛亥革命から1948年までの中華民国時代には、新たに江戸の著述が10種、明治以降の著述が7種、そして新中国となりました1949年から文化大革命の1966年までには、新たに明治以降の書が16種出版されております。無論、各書は幾度も復刻されているので、出版回数はもっと増えます。これに各時代の状況や、翻訳出版に関わった人物を重ねて見ますと、興味深い傾向、そして史実が見えてきます。
7.近代の中国医学-民国政府の中医廃止策
ここで近代の中国医学と日本の歴史を少し振り返ってみます。清末の唐宗海は1884年に『中西匯通医書五種」を著し、生理解剖学から中医理論を解釈し、のち中医西医の長をとる「中西匯通派」が清国から民国時代にかけて形成されました。この匯通派のモデルとなったのが明治以降、近代医学も援用した日本の伝統医学研究です。
1914年、北洋軍閥の袁世凱政府は中国医学の廃止を主張しました。直ちに全国の中医会がこれに強い反対運動を起こします。中華民国政府も明治政府に倣い、中国医学の廃止策をとります。
1925年には、全国教育連合会が提出した医学教育に中医学を編入する申請を拒絶し、医学校での中医教育を禁止しました。
1928年5月には、民国政府の第1次全国教育会議にて、大阪医科大学卒の汪企張が中医廃止案を提起します。翌29年2月、やはり大阪医大卒の余雲岫を筆頭とする中医廃止派の提出した廃止中医案を、政府の第1次中央衛生委員会が批准しました。これはまさしく半世紀前に明治政府が実施した漢医廃止策に倣ったものです。これに対し、全国の中医会は日本の前例に学び、粘り強い存続運動を展開しました。
すなわち1929年3月に上海で開催された第1次全国医薬団体代表大会をかわきりに迅速な対応がなされ、36年1月発布の中医条例で合法地位を獲得します。そして37年3月には政府衛生省に中医委員会を設立させることに成功し、断絶を免れることができたのです。
スライドの写真は1929年、上海に集まった請願代表団の写真です。前列左が後1936年に日本の伝統医学書を集めた厖大な『皇漢医学叢書』を出版した陳存仁です。右側が当時の中医学界の大長老・大学者の謝利恒です。謝利恒は『中国医学大辞典』という当時最新の辞典を編纂した学者です。この写真には、「民国18年国民政府廃止中医案晋京請願代表団」と書いてあります。
8.日本から中国へ 第2期-注目された日本の研究書(明治末~昭和初期:民国時代)
こうした中医存続運動の一つが、伝統医学教育の体系化と新教材の編纂でした。すなわち中医廃止派による五行説などへの批判に応え、さらに世論や政治家の理解を得られるものでなければならない。新しいテキストと教育体系は、そういうものでなければならなかったのです。
他方、日本では江戸中期以降の古方派以来、後期の考証医学派を含め、五行説を否定する傾向があります。また清末に楊守敬が中国に紹介した考証医学派の著述、すなわち『聿修堂医学叢書』ですが、これは幕府医学館の教材に相当し、高度な学術性および体系性が備わっています。さらに明治以降の伝統医学研究書は、先程の経穴書のように近代医学の洗礼を受けています。そうした特徴を持つ日本の伝統医書は、当時の中国医学体系化と近代化にかなり有用なモデルだったわけです。
この中医存続運動の中で、日本から中国への第2期伝入が始まりました。これは明治の末期から昭和の初期にあたります。1915年、岡本愛雄の『実習鍼灸科全書』が顧鳴盛の翻訳で『最新実用西法鍼灸』として出版され、のち幾度も再版されています。29年には名古屋玄医の『難経注疏』が復刻されます。1930年、滕万卿の『難経古義』が復刻され、また原志免太郎の『灸法の医学的研究』が周子叙の訳で『灸法医学研究』として出版されます。1932年には杉山和一の書が繆召予の訳で『百法鍼術』、吉原昭道の書が陳景岐の訳で『中風予防名灸』として出版されます。1935年、玉森貞助の書が『人体写真十四経経穴図譜』として出版されます。
そして1936年、日本医書出版ブームのピークを迎えます。これは中医存続運動の最後の山場でした。このときに出版されたのが先ほどの写真にあった陳存仁が江戸から昭和までの全72種を集大成し、編集・刊行しました『皇漢医学叢書』です。これは極めて画期的な書でした。私も東洋医学の勉強を始めた当初は日本の古医籍を手に入れることがなかなか出来ず、本書を買って使用していました。この『皇漢医学叢書』は現在も復刻さています。本叢書には杉山和一の『選鍼三要集』、多紀元胤の『難経疏証』、小坂営昇の『経穴籑要』のほか、佐藤利信の『盲人の学ぶ鍼法』を『鍼学通論』として、菅沼周桂の『鍼灸則』を『鍼灸学綱要』として、書名を改めておさめています。同じ年に刊行された『中国医学大成』という厖大な叢書には、岡本一抱の『鍼灸素難要旨』が収められています。
この年には玉森貞助の『鍼灸秘開』が楊医亜の訳で出版されています。また猪又啓岩らが著した神戸延命山鍼灸学院のテキストが、陳景岐・張俊義・繆召予の訳で『高等鍼灸学講座』として出版され、のち幾度も復刻されました。
スライドは『皇漢医学叢書』で、右側が台湾のリプリント、左側が香港のリプリントです。このスライドは玉森貞助の『鍼灸経穴医典』を中国訳した『鍼灸秘開』で、1936年の初版以来、現在も復刻が重ねられています。スライドは香港の復刻版です。訳者の楊医亜はのち河北中医学院の傷寒論研究室教授となり、私は初めて中国に行った1977年に北京でお会いしたことがあります。またスライドにあげたのが神戸鍼灸学院テキストの中国版『高等鍼灸学講義』です。ちょっと画質が悪いのですが、「日本神戸延命山鍼灸学校編纂」とあり、この翻訳に関わった中国人の名も書かれています。
また張賛臣という有名な中医がおり、スライドは彼が1937年に影印した『古本医学叢刊二種』で、安井元越の『腧穴折衷』2巻が影印されています。和刻版そのままが写真製版で出版されており、スライドは中華民国26年影印出版の実物で、奥付に日本の安井元越が著したとあります。この張賛臣は上海で開業していた大の親日派でしたが、上海事変以降の日本軍の非道な逸話を革命後に出版された本に怒りをこめて書いています。
スライドは1950年以前の中国で出版された日本伝統医学書関係の回数を一覧表にしたものです。左側が明治以前の書、右側が明治以降の書です。そして下側が辛亥革命以降の中華民国時代、上側が清代です。各々ではどの分野の書か、すなわち考証派やその他や古方派、あるいははり灸関係書と分けました。これにより、はり灸関係なら日本のどの時代の書が、中国でどの時代に復刻されたかが分かります。
このスライドは明治前の書と明治後の書の、中国での出版回数をグラフにしたもので、再版は含めておらず、初版だけの回数です。見て分るように、1881-85年に一つピークがあります。これが先に述べた第1期清朝時代のピークでして、清末に楊守敬が復刻した書、また彼に刺激されたその後の出版物です。そして中華民国の中医廃絶策への抵抗運動の一環として1926-30年から急激に伸び、1941-45年で急激に落ちます。この期間が第2期のピークで、主体をなしているのは明治以前の本です。当然ながら明治以前の本は大部分が漢文で書かれており、翻訳の必要がないため、簡単に出版できたのでしょう。一方、明治以降の本は多くが近代医学の洗礼を受けた伝統医学研究書ゆえ、これも必要なため翻訳・出版されたわけです。
この第2期のブームがなぜ突然終焉したかはいささか問題です。なお1929年から日本医書の出版が急増し始めたのは、中医存続運動が背景にあったからでした。その出版回数は1934年に8回、35年に21回、そして36年に83回と急増します。しかし1937年には3回、38年は1回、39年には0回になって出版がなくなってしまう。すなわち1936年がブームのピークであり、同時にブームの終焉だったのです。この理由は時代状況からはっきり理解できます。1937年の第2次上海事変からの日中全面戦争です。それへの反日運動と戦乱の結果です。
このピーク前後の出版回数を明治前と明治後の書に分け、左右のグラフにしました。すると1921年から25年の期間を除くなら、左右のグラフの増減傾向は同様に推移しています。但し、明治前の書は振幅の程度がより大きく、29年から36年までの出版の中心はおよそ明治前の本だったということが分かります。
9.明治後医書の中国版-好まれた書の傾向
他方、明治後の医書の中国版にはどのような傾向があったのか、少し考えてみる必要があります。そこで辛亥革命の1911年から新中国成立前後までに、2回以上出版された漢方治療書・鍼灸書、そして生薬の書を調査したところ計17種がありました。うち鍼灸の5書を中国の初版年順で刊年・中国名・著者名、そして原書名を列記するとスライドのようになります。1915年には『最新実習西法鍼灸』の初版が出て、以下に再版年を記しましたが、その原本の日本版は岡本愛雄の『実習鍼灸科全書』です。次は1930年に中国訳の初版が出た原志免太郎の『灸法の医学的研究』、やはり同年に中国訳初版が出た神戸延命山鍼灸学院のテキスト。36年に初版が出た玉森貞助の『鍼灸経穴医典』。さらに革命直後の49年に中国訳に初版が出た『鍼灸処方集』は、代田文誌の『臨床治療要穴』と松元四郎平の『鍼灸臨床治方録』を一緒にした書です。スライドの写真はこの草分けとなった原志免太郎の『灸法の医学的研究』の日本原本、また松元四郎平の『鍼灸経穴学』です。
こういった中国で復刻が繰り返された明治以降の書には、どのような傾向があるのかも考えてみる必要があります。以上の17書のうち、漢方治療書の著者は全員が医師でした。当時の日本の医師は全て近代医学を修めております。生薬書は薬剤師か薬学者、鍼灸書は鍼灸師・鍼灸学校・医学者の編著で、みな近代医薬学を修めております。明治以降でも、これらに該当しない内容や著者の漢方・鍼灸・生薬関係書は少なくありません。いわゆる通俗書・啓蒙書です。しかし、そうした書の中国版は数える程しかありません。ただし、こうした通俗書・啓蒙書の中国版は、実は現在までの台湾や中国に返還される以前の香港では少なからず出ています。韓国でも日本の通俗的な伝統医薬書がやや出版されています。
つまり近代科学の修飾を受け、いわゆる科学化された明治以降の伝統医学研究書が、中国で総じて好まれていたのです。これら17書が民国時代の1911年から49年に出版された回数を見ると、漢方治療書は8書で27回、鍼灸書は5書で20回、生薬書は4書で12回出版されております。刊行が重ねられた書ほど需要があって売れたはずなので、この数字は当時好まれた分野と書物の反映と見ていいわけです。
そして最も好まれたのが、スライドの湯本求真『皇漢医学』でしょう。本書には別々の2種の訳本が出ています。新中国以降も含めると計9回も復刻され、最も影響のあった明治後の医書といえます。この『皇漢医学』は、『傷寒論』に基づく一種の湯液治療研究書です。その影響もあって『傷寒論』ブームが新中国で起きたらしい、と私は考えています。かの魯迅は新聞に載った中国版『皇漢医学』の広告を見て、皮肉っぽい「皇漢医学」というエッセイまで書いています。
前のスライドに中国版『皇漢医学』に寄せた湯本求真自筆の祝辞がありましたが、当時の雰囲気はこの祝辞が載る周子叙の訳本に表れています。周氏訳本は1929年の年末に初版が出ており、その年の2月には先程話しました中医廃止令が批准されていたのです。この切迫感と本書への期待感は周氏の序文に書かれていますが、長いのでここでは紹介できません。このように前述した17書のうち6書は29年と30年に初版が集中しており、それらが中医廃止案の対抗策としての近代化や科学化のモデルだったことを物語っています。各訳書の書名を見ても、「高等」「最新」「西方」「医学研究」「科学実験」などの言葉が中国版で付加されており、みな同じ雰囲気を伝えています。
10.日本から中国へ 第3期-新中国による導入
日本の伝統医学研究書が中国に受容された第3期に話を移します。1937年の上海事変以降の日中戦争で第2期の日本書ブームは終わりました。ただし1949年からの新中国では66年の文化大革命発動まで、日本伝統医学書ブームが再び起きています。背景には新中国政府の中医振興策がありました。この時期には昭和の鍼灸書16種が新たに翻訳出版されています。それらの著者は柳谷素霊・代田文誌・長浜善夫・赤羽幸兵衛・本間祥白・間中喜雄らで、私たちにも馴染み深い先生方です。
当時出版された書物を挙げますと、革命直後の1949年、代田文誌の『鍼灸治療要穴』と松元四郎平『鍼灸臨床治方録』が楊医亜の合編訳で『鍼灸処方集』として出版されました。この楊医亜は1953年に柳谷素霊の『(最新)鍼灸治療医典』を翻訳出版しています。1954年には劉芸卿訳で阪井松梁の『灸点新療法』が出版されます。55年には北京に初めて国立研究所の中医研究院が開設され、この年に長浜善夫の『経絡の研究』が承淡安の編訳で『経絡之研究』として出版されました。また、承為奮・梅煥慈により赤羽幸兵衛の『知熱感度測定法』『鍼灸治療学』が合訳され、これに承淡安が序文を寄せ1956年に刊行しています。
スライドは1954年に劉芸卿の訳で出版された『灸点新療法』の原本、阪井松梁の『(図解)灸点新療法』1930年版です。こうした書は古書店でなんとか買い集めています。
スライドは劉芸卿・承為奮・梅煥慈らの合訳で1956年に中国初版が出た赤羽幸兵衛の『知熱感度測定法・針灸治療学』で、『医道の日本』誌に掲載された皮内針法・天秤現象も翻訳して付録されています。上海衛生出版社からの刊行で、このとき皮内鍼という日本で発明された鍼具が初めて中国に伝わり、後すぐに中国で皮内鍼が生産され、3年で中国全土に広まったとのことです。
この第3期に中国で翻訳出版された書物を順に挙げていきますと、56年には本間祥白の『鍼灸経絡治療講話』が承淡安の訳と序で『経絡治療講話』として出版されています。この年には赤羽幸兵衛の『知熱感度測定法』『鍼灸治療学』も出版。また同年には陶義訓・馬立人らの合訳で『針灸療法国外文献集錦』という書がでています。57年には代田文誌の『鍼灸臨床治療学』が胡武光の訳で同名出版。同年には本間祥白の『図解実用鍼灸経穴学』が承為奮・梅煥慈の摘訳で『十四経穴図譜』として出版されています。スライドは中国版の『鍼灸治療学』で1957年の人民衛生出版社版、胡武光の翻訳です。
このほか、1958年には柳谷素霊の『鍼灸医学全書(経穴篇)』が董徳懋の編訳で『針灸経穴概要』として出版。また間中喜雄・シュミットの『医家のための鍼術入門講座』が、蕭友山・銭稲孫の合訳で『針術之近代研究』として出版。同じ年には、代田文誌の『(沢田流聞書)鍼灸真髄』が承為奮・承淡安の合訳で同名出版されました。この承為奮という人物ははっきりしませんが、どうも承淡安の息子かと思われます。59年には本間祥白の『図解実用鍼灸経穴学(第二部)』が承為奮・梅煥慈の摘訳で『経穴主治証之研究』として出版されます。梅煥慈は承淡安のお嬢さんの旦那さんのようです。また同年には小川惟精の『指圧療法』が潘益翰の訳で同名出版されています。
スライドは柳谷素霊の『鍼灸医学全書(経穴篇)』が董徳懋の編訳で、『針灸経穴概要』として1958年、人民衛生出版社から出版されたものです。
11.承淡安と近代中医鍼灸
以上の各書で翻訳をしている承淡安という人物が以前から気になっていましたが、最近、様々な方面から情報を仕入れてある程度判ってきました。これら翻訳出版を担った承淡安や楊医亜などは、民国時代から鍼灸の教育・啓蒙を行っていた中医師です。特に精力的に活動した承淡安の功績は注目すべきでした。彼は1929年に中医が弾圧された時、江蘇省の呉県に「中国鍼灸学研究社」を設立し、中国初の鍼灸通信教育を開始します。これは32年に無錫に移転しています。そして1933年には中国で初めての『鍼灸雑誌』を発行していました。なぜこのようなことをしたか。当時は清朝の鍼灸廃絶策から、すでに100年を経ていました。中国の伝統を受け継いだ正式な鍼灸がほとんど絶滅し、非常にレベルの低い民間療法的な鍼灸しかなく、それもごく僅かだった時代です。あまりにもレベルが低すぎたのです。そのため、彼はこうした教育活動を始めたのです。
さらに1934年から35年の8ヵ月間、承淡安は来日して日本の先進的な鍼灸教育を調査しました。彼は東京高等鍼灸学校(呉竹学園)にて約半年ほどの授業を受け、終了時には日本の鍼灸教育を受けたという資格証を受け取ります。この時に坂本貢校長は目黒の雅叙園で特別に宴を催し、彼の終了を祝賀しました。
承淡安はこの来日で和刻の『十四経発揮』を古書店で、医道の日本社が販売している上野の東京国立博物館にある鍼灸銅人の写真、そして「人体神経図」や様々な日本の鍼灸器具を購入しています。これらに基づき、帰国後の1936年、『校注(古本)十四経発揮』『銅人経穴図考』として出版しています。スライドは彼が出版した『校注十四経発揮』で、右は革命後の再版本、左は台湾のリプリントです。
12.中国で消滅寸前だった『十四経発揮』
私たち日本人に『十四経発揮』は馴染み深い本ですが、実は中国で殆ど消滅寸前だったのです。滑伯仁の『十四経発揮』3巻は江戸時代に17回も復刻され、中国医書の和刻回数では第3位で、江戸から現在まで読まれ続けております。江戸時代には『十四傾城腹之内』なる洒落本、つまりパロディー本まで出たようなポピュラーな書物でした。
一方、中国では同じ滑伯仁の『難経本義』が多数復刻された反面、この『十四経発揮』は明の『薛氏医案』二十四種収録本を最後に、のち復刻されていません。また『薛氏医案』本は節略本で、完全な『十四経発揮』はもう中国ではほとんど消滅状態でした。それで本書の和刻本を入手した承淡安は喜び、これが日本で非常に研究され、経穴の基本テキストにされているということに驚嘆しています。
スライドには承淡安の「校注十四経発揮序」を一部分訳しました。こうあります。
又ある日、彼の家の宴に招かれた時、八田泰興氏が訳した『十四経発揮』を出して質問された…。此の書は我が国でほとんど失伝しており、薛己本が民間で流行しているが、錯簡が多くて取るに足らない。
いま意図せず坂本貢氏に遇い、また意図せず此の訳本を獲て読み、彼の邦に我が国の古本が必ずあるのを知った。
そこで日々医学書店に往き、…ついに某古書店でこの古本を見いだし、急ぎ購入して読んだ。その内容は…日本人の訳本や我が国の薛己本と較べ、更に詳細で完全である。…
此の書は中国で散佚したため鍼灸の学はほとんど湮没して見えないが、日本に流伝して彼の邦の鍼灸は又た盛興している。
此の次の東行目的は鍼灸の道を発揚することに在り、茲に此の書を獲得して祖国に持ち帰り…、即ち刊印を行う。…中華民国三十六(1937)年十一月 承澹安序於金陵旅宿舎
スライド左は彼が出版した『校注十四経発揮』に載る和刻本の写真で、江戸時代の書き込みがかなりあります。右は彼が日本で購入した辰井氏訓読の『十四経発揮』です。
このスライドは昭和8年、1933年初版の坂本貢が著した『教科用/受験用/経穴並孔穴図譜』で、他に『鍼灸医学精義』など沢山の著作があります。坂本は1926年に東京温灸医学校、1929年に東京高等鍼灸学校を設立しました。承淡安が来日した時は、坂本が新校舎を建設し、また各種学校の振興にも貢献していた時期です。
スライドに示した張錫の「重刊古本十四経発揮序」(1938)にはこうあります。
また文部省は三宅医学博士らの五大家に委托し、解剖によって調査研究し、凡そ一百二十穴の灸治点を規定した。
また後藤博士の研究では、英国人の…発見したHead’sZoneと古来鍼灸の孔穴には相互に吻合の点があるという。…而して其の経穴の本づく所は、けだし滑伯仁の『十四経発揮』しかない。
承淡安は帰国後、様々な鍼灸教育を実施していますが、時間が無くなってきたので省略させていただきます。なお1956年にかの梅蘭芳、すなわちメイランファンが京劇団を率いて来日しました。このとき彼は承淡安の依頼で、本間祥白の『経絡治療講話』や代田文誌の『鍼灸真髄』などを日本で購入しています。スライドの梅蘭芳は中国史に残る京劇の名優、女形の第一人者で、承淡安は梅蘭芳の主治医、また友人でした。
承淡安関連の日本鍼灸書の翻訳は11書に及びます。それら一覧をスライドに示しました。
一方、承淡安が養成した直接の門人は数百名、通信教育なども含めると3千数百人といわれております。彼ら門人は1956年から中国各地に設立されました中医学院で教鞭にあたり、1960年に刊行された中医学院の第1版統一教材『針灸学講義』も彼らが編纂したものです。スライド左は1960年に刊行された第1版統一教材の『内経中級講義』、右は『針灸学中級講義』です。現代中医学の骨格は、この第1版教材で築かれました。いま日本と中国のはり灸に湯液ほどの齟齬がないのは、この歴史経緯が背景にあるのです。
スライド写真の前列中央に座っているのは楊甲三教授で、承淡安が日本から帰国し、鍼灸教育に燃えていた1937年に入門した最初の弟子です。なお後列に写っているのは私で、実は1983年夏に北京中医学院(現在の北京中医薬学大学)の留学を終了した時の記念写真です。私は楊甲三先生に就いて学びませんでしたが、有名な先生だったので「どんな鍼かな」と、胃痛のとき一度打ってもらいました。足の三里にズバッと刺され、非常に響きが強くて「もう二度と中国鍼は受けまい」と思ったことがあります。楊甲三先生の左側中央は当時の高鶴亭副院長で、いまは来日して北京中医薬学大学日本分校を開校されています。
13.総括
まとめます。日本は中国で失われた多くの佚存古医籍や善本を保存し現在に伝えてきました。これらに基づき、江戸末期まで高度な古典研究がなされ、明治以降は近代医学も導入した研究、鍼灸教育システムが体系化されてきました。
中国の鍼灸は清末の廃絶により、民国初期に壊滅状態に至っていました。民国政府は中医廃止策をとりましたが、日本の研究成果も援用した中医の反対運動で幸い存続できました。そして承淡安らが日本に学んだ鍼灸学と教育は、新中国以降に中医鍼灸学が復興する礎となったのです。
日本が中国医学を受容・研究してきた成果は近代以降の中国に伝入し、いま新たな中医学として日本に再渡来しております。過去の歴史は今後の歴史に連なるのであります。
本研究発表に関する示唆と資料を頂きました谷田伸治先生に、この場を借りて深謝申し上げます。ご清聴ありがとうございました。
(以下、座長・小曾戸洋先生)
真柳先生、長時間に渡り貴重なご講演ありがとうございました。私は長年、真柳先生とは研究の場を同じくしてきたものですけども、日中の医学史あるいは鍼灸の文化交流の歴史を改めて学ぶことができました。先生の学識の深さ、広さを再認識した次第でございます。従来、日本は中国から一方的に伝統医学の恩恵を受けたというふうに考えられる向きもございますが、先生のご講演により、日本が中国の伝統医学に与えた影響には少なからぬものがあるということを教えていただきました。今後も単に中医学の享受に終止するだけではなく、自信を持って日本なりの確固たる鍼灸学の構築が進められていくことを、心から祈念いたしております。ちょうど時間となりました。皆様どうもご清聴ありがとうございました。もう一度拍手をお願いいたします。
これで特別講演Ⅲを修了いたします。小曾戸先生、真柳先生ありがとうございました。