동의학 이야기/일본 침구 이야기

柳谷素霊先生의 業績

지운이 2022. 12. 7. 17:42

柳谷素霊先生の業績

*伊藤瑞凰, 西田勇三郎, 中村万喜男, 富 田道夫 (日本)

   (日鍼 灸誌 27巻1号 昭53.5.15)

 

 

1. 緒 言

本日, はからずもこの盛大な国際鍼灸学会におきまして, 東洋鍼灸専門学校同窓会ならびに柳谷素霊遣徳顕彰会を代表し, ここに,「恩師故柳谷素霊先生の業績」と題して発表させて頂くことになりました。

柳谷素霊先生が他界されてから, すでに18年も経過しております。だが, 日本ではおろか国際的 にも, 鍼灸界の第一人者としての知名度が今なお高いのであります。そのせいなのでしようか, 鍼灸医学に志す諸外国のドクター達の中では, 柳谷素霊先生がすでに病残されたことをいまだに知らず, 存命して鍼灸界に活躍中であると信じているそうです。 逆に, 日本における新しい鍼灸人の間では, 柳谷素霊先生がどんな業績を残 されたのか知りたい, という声が各方面から聞くようになりました。

今は亡き柳谷素霊先生の業蹟 として, 年表一覧・著書口録一覧を見て頂き, その概要を話してみたい所存でございます。

 

2. 柳谷素霊先生の生い立ち

先生は, 明治39年・青森市相馬町に誕生し,昭和34年・東京都新宿区西大久保において, 過労が度び重なり享年52歳で病残されました。 幼ない頃の本名は,《柳谷清助》と命名されております。やがて青森から北海道函館市栄町に移られ, 少年時代をすごされました。厳しい寒冷の地・北海道で, 慈愛に満ちたご両親の薫陶で成長された先生の精神形成は, まさしく質実剛健にして正義感に溢れ, 破邪顕正の博愛精神でありました。

これがやが て, 日本神道を通 じて東洋医学への限りない景仰と求道心に若い情熱を燃し, 鍼灸医術の神髄を悟り精通するに至りました。鍼灸の医事現象の科学的な把握をするためには,現代西洋医学の基礎知識を踏襲するのは当然としながらもさらに重要なことは東洋医学の原典である《黄帝内経素問霊枢》に学び, 現代鍼灸医術に純化しなければならないとし, そこで昭和2年9月, 21歳の若さで, みずからの号を《柳谷 素霊》と称したのです。 そして, 時を同じくして素霊鍼灸塾を開き, 鍼灸の教育方面に向って前進していったのです。

 

3. 後進の指導と育成

先生が30歳の時, 昭和11年9月に日本高等鍼灸学院を設立して校長となり, 閣王山での臨床全盛時代とあいまって, 多くの門弟の指導育成に当られました。

昭和20年の終戦時, マッカーサ司令本部より日本鍼灸潰滅寸前の「鍼灸廃止令」が発布されようとしたとき, 先生は, 多くの学術業界同志と共に団結を図り, この難関を見事に乗り越えて阻止することができたのです。

したがって, この現実を契機として, より一層の鍼灸医学教育の必要性を痛感し, 拓殖大学附属正明高等学校に理療科を設置しました。 晴眼者の鍼灸医学教育に, 文部・厚生両省の新制認可校として初めての事でした。新しい後進の指導に対して, 誘り高い情熱をもって奉職されてお りました。 この後, 東洋鍼灸専門学校と改称されるまでの間, 実に幾多の困難と栄光の座にあ りながら, 寸時も休む暇もなく, 臨床に, 教育に, 著述に, そして講演活動にと, その活躍たるや実に超人的であった。世に送り出した多くの後進者のために, 時には講演活動もいかんなく発揮されました。

 

4. 日本鍼灸を欧州に普及

ついこの間のように想えることは, 昭和29年, 理療科の科長として在職中, ドイツからヘルベルト・シュミット氏, フランスからパラ・デュポン氏があいついで来日し, 日本鍼灸医術を柳谷先生から習得 して帰国したことです。 その翌年, 先生がフランスより招聘され渡欧し, フランス・ドイツなどの鍼灸友好医学界で, 日本の伝統鍼灸医術を紹介 し, 普及してまいりました。画壇の巨匠ピカソを治療したのも此の時であった。

先生が鍼灸医術に対する信念はますます固く, 東洋本来の姿で鍼灸医術を科学化し, 現代自然 科学にふさわしい鍼灸医学機構を完成したい。 と, このようなことから, 国立研究機関の設立を要望して久しかったのです。 しかし, この当時の日本の鍼灸行政では, 鍼灸に対する深い理解は得られなかったのです。 そこで先生は, 欧州から帰国するや, フランスに東洋鍼灸専門学校の分校をつくり, そして, 日仏独の共同研究機関を設け, その成果を日本の専門行政に認めてもらうよりほかに手がない……と, 真剣な面影がいまだ懐しく想い浮んでくるのは私独りでし ょうか。

 

5. 教育界と学業界の近代化

先生は, 若い頃から先導者として, 鍼灸の教育界と学業界を展望し, なお一層の発展と向上をねがい, 学業人同志と共に在来的な鍼灸の旧弊と悪弊とを打破されてきました。そして, 鍼灸医術古典の教示している論理の整理統括を強化し, これを臨床実践を通して検証し, その普遍妥当性を発見し, この事実を曲げてしまうことのない医学機関の協力を得ようとしました。 それには, 経穴の統一, 鍼灸現象の科学的把握, そして, 鍼灸治療原理の樹立へと促進 して科学的組織づくりを強調したのです。 鍼灸というごくもつとも素朴な医療行為によって, あらゆる疾病に対応できるという実践的性格をもった治術はほかにない.しかも明日の科学への可能性を充分にもっていると指摘し, やがて来るべき近代化に備えよとかつ破されていたのです。

この大きな鍼灸業界の流れのなかに, 古典学よりなる「経絡治療」を導き, 学術の体系化を世に問われました。現在も岡部素道氏を中心に「経絡治療学会」があり, また一方には, 日本鍼灸師会の木下晴都氏を中心に, 「鍼灸治療学会」があって, 日本鍼灸界の双壁をなしております。

 

6..著 述 と論 説

参考文献の, 柳谷素霊著書 目録一覧を見て頂くとおわかりのように, 昭和5年から約30年の間に, 鍼灸古典医学の旗頭として, 後進者の学習指導教科書の編纂か ら手始めに, 鍼灸医学古典 を注解し復刻し, そしてさらに, 先生自身の臨床体験やら, 近代先輩諸賢の臨床論など多くとり入れ, 臨床実技の優秀性をおしげなく披歴した専門書などを, つぎつぎと上梓されていったのです。 その著書の数, ざつと50冊余におよんでおるようです。

また, 鍼灸業界に, 現代医療界に, あるいは鍼灸行政界にと, 先生独自の論説ば, いまなお鮮明によき教訓となっております。 これを挙げて数えきれないほど多方面にわたって論説されております。 その代表的なものは, 何んといつても「蓬松」に始まり, これがやがて「医道の日本」に改まり, 昭和21年から31年までの10年間連載された巻頭言であるといってもよいと思います。 あるいは, 「東邦医学」誌に, そして「漢方と漢薬」誌に長い年月におよんで論陣を張り, 鍼灸医道の将来について, 終始一貫して古典医学に依拠し, 古人の探究したるところを科学化せよ……と叫び続けられてまいったのでございました。

ちなみに, 医道の日本誌(昭和28年11月号)の巻頭言に, 「古典・臨床・科学」と題して, つぎのように論説されております。

「病人二対スル医者ノ態度・方法ハ, 既知ノ医学知識ガ先行スル事ハ言ウマデモナイ。 シタガッテ, 我ノ如ク鍼灸ヲ以ッテ病人二相イ対スル者ハ, 鍼灸知識ノ宝庫デアル古典ヲ知ラネパナラヌコトハ自明ノ事デアル.

トコロガ, 古典ノ科学性ガ問題トナリ, 時トシテ, 科学的批判ノ対象ニサエナル現代鍼灸学界二於イテ, トカク古典ガ軽視セラレル傾向サエアル。此ハ今ニ始ッタコトデハナイガ, 近時濃厚ノヨウデアル。 ケレドモ古典ノ非科学性ナル判断ハ本当ノトコロ, ソノ実践デアル臨床ヲ通サズシテハ判定サレルベキモノデハナイ。 ココニ科学判定ノ困難性ハアロウガ, 此ハ科学的方ヲ総動員シテ克服スベキモノデアル。

鍼ヤ灸ガ単ニ刺激デアルトスルナラバ, 刺激生理, マタハ病理ノ立前カラ, ソノ理論組織ヲナスベキデアル。 ガ, 実際ノ鍼灸治療ハ, 此ノ理論ノミニ依ッテ行ハレテイルコトハ考エラレナイノガ臨床ノ実際デアル。 コノ面ヲ如何ニ科学的ニ処理セントスルカ, コレハ最モ大切ナ課題ノーツデナケレバナラナイ。 以上ヲ考勘スルニ, 此レラバ臨床ヲ通シテ古典ヲ読ムト云フ, 古先人ノ教訓ヲ今サラナガラ我々ハ再認識シ, ココカラ新シイ鍼灸ノ科学的理論ヲ導クタメニ努 力ヲ惜シンデハナラナイト考エルモノデアル。」

私は, 鍼灸の近代化, 科学化とは何かを, 痛切に教えこまれた当時の先生が, まざまざと浮んでくるのを覚えます。

多くの論説を閲覧してみますと, 鍼灸医術は臨床実践にあるという信念で終生一貫しておられました。 真底から病人の味方になれる近代鍼灸医術を復元しなけれはならない……つまり, 臨床の術として鍼灸の研究は, それ自体が科学化されなければならない性格をもっている。それでこそ実証医学としての鍼灸術の本質が鮮明になるのだという確信をもっておられたのです。 これこそが未来の鍼灸医学の進むべき道標であると, 口に筆に唱導し, そして, 深い医学構想を練りながら, 惜しいかな52歳で生涯を閉じられてゆきました。

終りに当り, 本稿に御協力頂だいた, 柳谷正子未亡人, 石野信安, 西沢道允, 鈴木啓民, 小野文恵, 橋本素岳, 神戸源蔵, 清水貞顕, 山下訥, 戸部宗一郎, 赤坂憲良の各先生方に深甚の感謝の意を表するものであります。

 

 

 

参考文献 (References)

 

故 素霊先生 著書 目録一覧

 

1930年 (昭和5年8月) 鍼灸解剖学

同 年 (同 年11月) 鍼灸生理学

1931年 (昭和6年3月) 鍼灸病理学

同 年 (同 年7月) 合類改正孔穴学

1932年 (昭和7年3月) 鍼灸経穴学

同 年 (同 年10月) 最新鍼灸治療学

1933年 (昭和8年8月) 鍼灸試験問題解答集

1934年 (昭和9年10月) 簡明不問診察法

同 年 (同 年 同月) 鍼灸治療医典

1935年 (昭和10年) 各地家伝秘鍼秘灸秘伝集

1936年 (昭和11年11月) 鍼灸医学全集 (全四巻)

同 年 (同 年 同月) 詳解鍼灸経穴図

同 年 (同 年12月) 鍼灸試験合格必勝法

1838年 (昭和13年1月) 鍼灸医学入門

同 年 (同 年同 月) 鍼灸上達法

同 年 (同 年3月) 禁穴論返し鍼法

同 年 (同 年 同月) 新選鍼灸学

1939年 (昭和14年1月) 鍼灸消毒学詳解

同 年 (同 年3月) 小児絶対健康法

同 年 (同 年 同月) 補瀉論集

同 年 (同 年7月) 註解鍼灸重宝記

同 年 (同 年9月) 註解袖診十四経絡発揮

同 年 (同 年10月) 鍼灸治療の実際

同 年 (同 年11月) 註解鍼灸手引草

同 年 (同 年12月) 註解鍼灸弁惑

1940年 (昭和15年1月) 註解石坂流鍼灸書

1940年 (昭和15年2月) 註解鍼道発微

同 年 (同 年3月) 註解鍼道秘訣

同 年 (同 年 同月) 註解黄帝内経霊枢 (九巻)

同 年 (同 年5月) 註解鍼灸広狭神倶集

同 年 (同 年 同月) 鍼灸兪穴学治療学講義

同 年 (同 年10月) 万病に効く灸

1941年 (昭和16年3月) 鍼灸受験要覧

同 年 (同 年4月) 強壮灸と治病灸

1943年 (昭和18年10月) 鍼灸技術学大成

1944年 (昭和19年3月) 鍼灸経穴字典

1946年 (昭和21年4月) 秘方一本鍼伝書

1947年 (昭和22年4月) 最新鍼灸医学摘要

1948年 (昭和23年3月) 秘伝名灸図解

同 年 (同 年 同月) 鍼灸医術の門

同 年 (同 年8月) 脈診による鍼灸治療法

同 年 (同 年9月) 図説鍼灸実技

同 年 (同 年11月) 校定十四経経穴学

1950年 (昭和25年6月) 図解按摩術

1951年 (昭和32年9月) 最新鍼灸按柔問題解答集

同 年 (同 年10月) 五十からの青春

1953年 (昭和34年3月) 鍼灸の科学(実技篇)

 

故 柳谷素霊先生 年表 一覧

1906年 (明治39年11月) 幼名柳谷清助青 森市相馬町に生 る

1923年 (大正12年5月) 於千葉県鍼灸師試験に合格される

1924年 (大正13年4月) 日本鍼灸専門学院教師就任す

1927年 (昭和2年4月) 日本大学宗教学科入学される

同 年 (同 年9月) 素霊鍼灸塾 開設 自から柳谷素霊と号して, 生涯黄帝内経医学を研讃

1930年 (昭和54年4月) 東京鍼 灸医学校の教頭に就任される

1931年 (昭和6年3月) 実践鍼灸医学会理事に就任 日本大学宗教学科を卒業

同 年 (同 年4月) 東京鍼灸医学会創設, 自から会長を就任する。

1934年 (昭和9年5月) 日本漢方医学会幹事に就任される

1936年 (昭和11年4月) 盲人技術学校講師を就任される

同 年 (同 年9月) 日本 高等鍼灸学院を設立し院長就任「医道の日本社」を設立し自から社主 となる。鍼灸誌 「蓬松」(昭和13年1月)を 発刊す。続いて「医道の日本」誌を月刊誌として発行。

1938年 (昭和13年1月) 日本鍼灸医学研 究会理事に就任する

同 年 (同年11月) 東亜医学協会理事に就任される

1939年 (昭和14年5月) 閣王山鍼灸の臨床全盛時代始まる

1945年 (昭和20年3月) 東京大空襲 日本鍼灸学院全焼

同 年 (同 年8月) 大戦終結。 マッカーサー司令部より発した鍼灸廃止令に鍼灸界大恐慌を起す。全国を遊説し業界団結を促し鍼灸医術護持運動の展開に挺身した。

1947年 (昭和22年9月) 日本高 等 鍼 灸 学 院 再 開成る。

1949年 (昭和24年4月) 紅陵大学正 明高等学校理療科を設置し, 科長に就任する

同 年 (同 年) 日本鍼灸師会相談役に就任される

1951年 (昭和26年4月) 都立文京盲学校講師に就任される

1955年 (昭和30年6月) 欧州の招聘により渡欧し,日本古典鍼灸医術を紹介され る。

1957年 (昭和32年4月) 正明高等学校 理療科を東洋鍼灸専門学校と改設, 校長に就任する。

1959年 (昭和34年2月) 日本鍼 灸界 の巨星, 過労のため遂に病に倒れ, 惜まれながらその生涯 の幕を閉じられた。